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海水で昔ながらの島豆腐を作り続ける人~宮城チヨさん、宮城貢さん(大宜味村)

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長寿の村として知られる大宜味村(おおぎみそん)の塩屋集落に、午前3時頃、真っ暗な空に向けて白い煙が昇る家がある。昔ながらのやり方で島豆腐を作り続けている宮城チヨ(みやぎ・ちよ)さんの三男、宮城貢(みつぐ)さんが豆乳を炊くために薪をくべているのだ。




チヨさんの朝は早い。火曜日と金曜日、2時には床を抜け出して、豆腐を作るために作業場に向かう。取材にお邪魔した日も、まだ2時半なのに、作業場の椅子に座って出迎えてくれた。傍らには銀色のお大きなボウルが置かれていた。前の晩の8時頃、チヨさんは大豆を水に浸ける。6時間ほど経った大豆は、はちきれんばかりに体を膨らませて、出番を待っているように見えた。




大豆をグラインダーに入れて搾るのは、貢さんの役割だ。プリプリの大豆をザルで掬い、投入口に注ぎ入れると、美味しいそうな白い呉(呉汁の呉。大豆をすりつぶしたもの)が、トロトロと流れ出てきた。二人仲良く向かい合って、漉し布で呉を絞る。「呉汁を絞る作業もとてもきつい仕事なんですよ」と、貢さんは母親をいたわるように言う。「みんなが待ってるからねー、やめるわけにはいかないよ」と、傍でチヨさんがはにかみながら合いの手を入れる。しばらくすると、貢さんが大きな清明鍋(しんめいなべ)に豆乳を移し、かまどに薪をくべ始めた。力のいる作業は貢さんの仕事なのだ。




いい具合に温度が上がったところで海水が注ぎこまれる。ほとんどの豆腐屋さんはここでにがりを投入するが、宮城家では、チヨさんのお母さんの時代から、塩屋の海から汲んできた海水を使ってきた。イノーと呼ばれる浅瀬が広がり、珊瑚礁が外海からの荒波をさえぎってくれるので、このあたりの海は、魚や貝の赤ちゃんが育つゆりかごのような場所だといわれてきた。お父さんが健在だった頃は、舟で沖合まで海水を取りに行っていたそうだが、最近は、漁港内で海ぶどうの養殖をしている知人から海水を分けてもらっているという。

 「おふくろは豆腐ができていくプロセスを、『豆腐が生まれる』って言うんですよ」。貢さんはメジャーカップを使わずに、目分量で注ぎ込む。そして、子どもを寝かしつけるように静かにゆっくり腕を動かして、優しく静かにかき混ぜる。生命に満ち溢れた海水の力で、そのようにして豆乳は、ゆっくり豆腐へと育っていくのだ。



 
かまどに火を点けたのは3時過ぎ。チヨさんは、この時間に一旦作業場を離れ、仮眠を取る。1時間ほど経った頃、豆乳が炊き上がった。「今日は火の調子がいいね。火が強いと固くなるし、焦げ臭が出るし色が強くなる。だから、弱めに炊くんですよ。弱すぎて、凝固しなかった時も何度かありましたけどね」。そうつぶやきながら、貢さんは泡の盛り上がりを注意深く見守っていた。「慌てん坊は豆腐作りには向かない」というのがチヨさんの口癖だったそうだ。貢さんは、母親の教えを守るように、じっくり、焦らず、子が育つのを見守るような態度で豆腐が育つのを待っていた。






次は、豆乳を型箱に流し込む型入れの作業。ステンレス製が主流の現在でも、宮城家では昔ながらの木箱を使っている。塩屋集落のある大宜味村は、優れた職人を輩出する大工の村としてかつては知られていた。尊敬の気持ちを込めて大宜味大工(いぎみぜーく)と呼ばれてきた大工たち。今もなお健在のこの型箱を作ったのは、大工だったチヨさんの夫だった。

型入れが終わったのは、4時半頃。固まるまで1時間ほど、休憩に入る。



 
休憩が終わると、型箱から豆腐を取り出し、包丁で切り分けて袋づめ。沖縄では手作り豆腐をパック詰めにしたり、冷蔵する習慣がない。ゆし豆腐も同じ様に袋に詰められる。間もなく、貢さんは村内に配達に出かけ、入れ違いにチヨさんが作業場に戻って「店番」をする。




10月下旬の朝6時。辺りはまだまだ薄暗い。お客さんを待つ間、チヨさんと少しおしゃべりをした。「シマを出たことは一度もない」と言うチヨさんは、今年88歳になる。19歳でこの家に嫁いできて、貢さんがお腹にいる時に豆腐作りを手伝い始めたそうだ。「戦前は、豆腐はめいめいの家庭でつくるものだった。戦争が終わっても、この集落の20軒くらいが豆腐を作ってたよ」と、ほんのり白み始めた空を眺めながら、懐かしそうに教えてくれた。

チヨさんが知る限り、宮城家と同じように海水を使い、薪で炊いて作る昔ながらの豆腐屋は、本島では国頭村(くにがみそん)の奥という集落に一軒残っているだけだという。一時は、毎日毎日朝昼晩、3度豆腐を作り、作り終わると、自転車にまたがって、村内を売り歩いていたそうだ。「もうけは少し。夏は暑いし、冬は冷たい。おからや、くんする(上澄みの汁)で飼育していた豚で家計を支えていたよ。でもね、やめられない。食べたいと言ってくれる人がいるからね」。時代が移り変わっても、作る量こそ減っても、チヨさんは昔と同じように豆腐をつ繰り続けている。




沖縄戦当時15、6歳だったチヨさんは、軍に徴用され、伊江島飛行場の建設に携わった。男も女も関係なく、石を砕いては運ぶという重労働を体験した。1944年の10.10空襲では飯場を焼かれ、亀甲墓に寝泊まりしていた時期もあるという。戦争が終わって時代が移った今、チヨさんにとって幸せとは何だろうかと訊いてみたくなった。「そんなのないよ」。素っ気ない答が返ってきた。「ないから、いつも物事をいい方向に考えるようにしているわけさ」。男の子を3人、女の子を5人、育て上げるので精一杯で、楽しみを見つける余裕などなかったのだろう。

しかし、チヨさんは今、豆腐作りを一人でやっているわけではない。貢さんが寄り添うように側にいる。そして、孫たちも、大好きなおばあちゃんを慕って、ことあるごとに集まってくる。そういうことの一つ一つが、チヨさんにとっての幸せなのかもしれない。




「おふくろがずっとやってきたことだし、甥っ子も姪っ子も、近所の人も、おふくろの豆腐を食べたいという人がいるわけだから、手伝うしかないでしょ」。小学校3年生の頃、自転車に乗れるようになったのを機に、豆腐の配達を手伝うようになった貢さん。行く先々でお菓子をもらったりと、地域の人にかわいがられて育ったそうだ。お世話になった人への恩返しの気持ちもあって、6年前にあらためてお母さんの豆腐作りを支えるようになった。「豆腐の味は料理と同じで家庭によって違うからね。おふくろは料理も上手だったから、地域の人から重箱料理を頼まれたり、お餅をつくったりしていましたよ。今でも時々作るんですけどね」と目を細めて語ってくれた。




 「おふくろが作る豆腐も、ニガナの白和えも、厚揚げも、昔のままの味がする」という。時代が変わって、大豆を挽いていた石臼こそ、グラインダーに変わったが、そのほかは昔のまま。

「うちの豆腐は4、5日は持つよ。何でって、薪で炊いてるからさ」。ちょっぴり自慢げなチヨさんの表情は、幸せそうに見えた。

*宮城家の豆腐は少量生産ということもあり、一般の商店では購入できません。火曜日と金曜日の午前中、運が良ければ作業場に座っているチヨさんから買い求めることができるかもしれません。(島豆腐、ゆし豆腐ともに一袋200円です)

[お豆腐についてのお問い合わせ]
宮城貢さん
電話/080-5672-5861
住所/沖縄県大宜味村塩屋

沖縄CLIPフォトライター 福田展也

《うみ学校・やま学校》
風の人、土の人、沖縄の田んぼで人をつなぐ人
南の島のエジソン少年は、やがて発明家になった
八重岳でパンを焼いて、畑を耕す人。

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